近江商人亭は、愛荘町中宿の中山道沿いに建つ料亭です。同地出身の近江商人三代目田中源治の娘婿、新左衛門の邸として使用されました。
広大な庭園を望む明治25年(1892)建造の大広間と、四代目源治(三代目源治の長男)が大正8年(1919)に建造した茶室を備えた表の間からなります。
同地は初代田中源治が文政元年(1818)に近江産の麻織物や蚊帳などの行商をはじめた場所です。その後、販路を拡大し、嘉永年間(1841~1854)には江戸方面に進出し、慶応2年(1866)頃までには京都に店を開業していました。
明治13年(1880)に家督を相続した三代目源治は、商売の中心を京都から東京に切り替えたため、業績は急速に拡大しました。
その資産は、明治27年46,500円であったのが、37年には167,500円に拡大し、愛知川村最大の高所得納税者となりました。また、地元の発展に尽力し、大正5年頃には三代目源治ほか23名の篤志者は各自100円を出資して、2,400円の基金で愛知川奨学財団法人を組織しました。さらに、店の従業員のほとんどを地元で採用したと言われています。
明治13年(1880)に家督を相続した三代目源治は、商売の中心を京都から東京に切り替えたため、業績は急速に拡大しました。
その資産は、明治27年46,500円であったのが、37年には167,500円に拡大し、愛知川村最大の高所得納税者となりました。また、地元の発展に尽力し、大正5年頃には三代目源治ほか23名の篤志者は各自100円を出資して、2,400円の基金で愛知川奨学財団法人を組織しました。さらに、店の従業員のほとんどを地元で採用したと言われています。
玄関棟の部分は、比較的近年に増築されたものです。玄関奥の蔵には棟札が残されており、明治25年(1892)9月の上棟で、大工は出口幸次郎であったことがわかります。
調査により表座敷の2階にも棟札が見つかり、「大正八 乙未 歳辰五月拾九日第四世田中源治建之 棟梁満島政吉 脇棟梁辻久衛」の墨書が確認されております。
玄大広間棟は平屋の建物ですが、母屋のまわりに下屋を付して軽快な外観です。庇を深く出し、縁先にはガラス戸を建てております。室内から庭園の景色を手に取るように見ることができます。庭園には池と枯流れが造形されており、枯流れには大きな石橋が架かっています。植栽も丁寧に整備されています。
嘉兵衛灯籠の優美な姿。約2.9メートルという大きさにも圧倒されます。この灯籠は、近代における近江の名石工=西村嘉兵衛の作とされています(初代の作か、二代目の作かは不明)。
機械では真似のできない、当時の石工が持つ技術の高さを思い知らされる作品といえます。
寝覚石とは、花崗岩の岩盤を、木曽川の急流が浸食してできた奇岩であります。古くから木曽路を行く旅人たちが必ず足を止め、眺めたといわれております。岩の表面にできた縦横の割れ目(方状節理)[ほうじょうせつり]や甌穴[おうけつ](ポットホール)は、地質学的にも貴重なものとされております。
昔の庭では沓脱石として使われている鞍馬石(くらまいし)は、京都府鞍馬山系の山中から産出する花崗岩(かこうがん)で、土壌に鉄分が多いため、表面が赤茶色におおわれた石をさして鞍馬石とされていますが、現在では京都鞍馬で産出される石は少なく、良質のものが減じたそうです(幅3メートル、奥行1メートル)。